1点へのこだわり
個展の会場で作品の解説をしていると、「写真集はないのですか?」と、よく尋ねられる。
展示作品に興味を抱く来訪者は、私の「写真集は作らない」と言う返事に、
作品は飾る場所がないので購入できないのだけれど、写真集があれば購入したいのに、とがっかりすることもある。
確かに写真集を作らない写真家と言うのは珍しい。
そして一般的な解釈ならば、写真家であれば写真集の1冊くらい出しているはずだと、考えてもおかしくない。
私自身、海外の作家の写真集から多くを学んで写真家になった。
写真集の価値を否定する気持ちはまったくないし、最近の印刷の手軽さや技術を考えれば、
私の作品の情報も十分に伝えることができると思う。
だから、作品展の図録(カタログ)として印刷物を作ることには抵抗は感じないが、
それは、いわゆる写真集ではない。
なぜ、写真集を作らないのか?
日本での写真集というものの受け止められ方に抵抗があるのかもしれない。
写真をひとまとめにシリーズ化して出版したものだけが、写真家の作品だと考える人もいる。
そして、自分の作品の最終形態が写真集だと考える写真家も決して少なくない。
同じ美術、例えば絵画であれば、画集を作ることを目的に1枚の絵を描きあげるのは、あまり一般的だとは思えない。
それと同じように私の作品も、その1点で完結し、単独で展示するために作られている。
無理に1冊の作品にまとめると、それぞれのイメージが弱まってしまうものもある。
もちろん、個展の会場にはたくさんのイメージが展示されているのだが、それぞれは額で遮断され、
購入する人はその1点を部屋に飾った光景を想像しながら作品を選ぶ。
全体ではなく1点が評価の対象になる。
つまり、写真集という1冊の作品を作るのは自分の今のスタイルではないし、
それで作品を評価されるのも違和感があるわけだ。
撮影から始まる製作スタイルにも、同じことが言える。
一カ月近い撮影旅行でも、何かをテーマにしてシリーズを撮影しようとは思わない。
「気に入った作品が一枚仕上げられればそれでよい」。そう思って出掛けるが、その一枚がなかなか仕上がらない。
今回のイメージは住宅の跡に残されたプラスチックのバケツ。
このフォルムと底に溜まった水の輝きを出すために、露光時間は30分。
プリントも難しく何度もネガを作り直した。
東北の太平洋側、宮古の少し上にある田老町で2001年の撮影。
震災の津波で甚大な被害を受けた漁港から山の方に登っていくと鉱山の跡があり、
当時の施設や住宅がちらほらと残っている。
今はない、巨大な防波堤の近くで車内泊をしながら、長い時間を過ごした。
この写真を見ていると高い堤防に囲まれた、海の見えない田老の町と、絵の描かれた漁港の堤防を思い出す。